『主のために生きる』   使徒行伝 5:12〜42

 教会には様々な問題が起こります。第5章1節以下には、アナニヤ夫婦の献金問題がありました。これは教会内の問題です。それに対して今日のテキストの12節以下には、大祭司らによる迫害(17,18)が書かれ、これは教会外からの問題です。このように初代教会には、教会内外からの問題が山積していました。にも拘わらず教会は衰退せず、むしろ隆盛を極め、2万人ほどの群れとなっていました(14)。これは不思議な現象です。今日は、教会内外からの試練にも拘わらず、どうして救われる人が起こされたのかを見てみましょう。

T.しるしと奇跡
 教会は、使徒たちの手によって多くのしるしと奇跡が行われました(12a)。今の時代、このような不思議なことは少なくなりました。もしこのようなことが起こったならば、人はもっと救われるだろうと私たちは思いがちです。しかし人は驚きはしても、救いに至るとは限りません。13節参照。私たちの最大の奇跡は、自分が救われたことです。病気等が癒されることは素晴らしいことです。それ以上に自分が救われていることは、もっと素晴らしいことです。救い以上の奇跡はありません。その救いを単純に感謝して歩むことこそが、救いの御業がなされる第1歩です。

U.教会の一致
 初代教会の人々は、心を一つにして集まっていました(12)。彼らは教会が一致することを、ことのほか大切にしていました。4:32,2:46参照。その結果、神は救われる者を日々仲間に加えてくださいました。2万人からなる教会には、色々な考えの人がいたはずです。それであっても、そこには一致がありました。その一致は、みんなが同じ考えを持つという一致ではなく、神の御心を求めることにおける一致です。その一致の先に神の御業があるのです。

V.福音宣教
 大祭司らは使徒たちに嫉妬し、彼らを留置場に入れました(17,18)。しかしその晩、主の使いは彼らを獄から去らせ(19)、福音宣教の門戸を開きました(20)。そこで、大祭司らは使徒たちを殺そうと謀りました(33)。そこにパウロの若き日の師である律法学者ガマリエルが、使徒たちを弁護するかのようにして入ってきました(34)。彼の介入によって、使徒たちに再度、福音を語る門戸が開かれました。その福音は、私たちにも開かれ、語ることを閉ざすものは何もありません。私たちが救われたのも、誰かの福音宣教によりました。今度は私たちの番です。

 私たちは教会内外の問題に目を奪われやすい者ですが、しるしと奇跡以上の救いに感謝し、御心を求めて一致し、誰かのための福音宣教に励み、タイトルにあるように「主のために生きる」教会を目指しましょう。そのような教会に救われる人が起こされる、と聖書は約束します。

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